この話は前回の続きです。
木曜日の夕方、コーチとのセッションが終了した時点で、見通しとして、うまくいって1.5日、普通に考えて2日間は仕事漬けだな、と思った。
一度、「終わったー!」「〆切迫ってるものも積み残しているものもない!」という状態で遊んでみよう、少なくとも日曜日はそれができるな、と思った。この時には。
そもそも今回はハードルが高い。これまで無意識にしろ何らかの理由があったからこそ先延ばししている仕事を片付ける必要があるのだから。
だけどそれらを片付けない限り先へは進めない。
ただ、最初は割と楽観視していた。
何しろここは札幌だ。札幌にいるときの私は明らかに東京よりもパフォーマンスが高い。
しかも、ある意味因果関係が見えやすい。先延ばしした1分1秒は、札幌を満喫する時間を1分1秒と削っていく。
これだけはっきりした因果関係があれば、いくら私でもやる気になるだろう、と思っていた。
そしてやっぱり、現実は甘くなかった。
思っていたより時間がかかったり、なかなか進められなかったり、とにかく苦戦していた。
しかも、どれだけ札幌を楽しむ時間が削られていく感覚が自分に刻み込まれていっても、進められないものは進められない。改善しないのだ。
結局、日曜日の朝の段階で、「これ、今日中に終わるのか?」という進捗度合だった。
翌日の月曜日は東京への移動日だ。後ろ倒しはできない。
でも、ここで考えた。
「これ、トラウマにしちゃだめだ」と。
友人のパーソナルジムトレーナーから聞いた、
「R社のジムに通って痩せた人がリバウンドして、自分のところに来た。そのお客さんは、『(R社のジムで)あんなに辛い思いをまたするくらいなら、もう痩せなくていい』と言っていた」
という話を思い出す。
一度成功すればよいのではなく、継続的な行動変容を狙うなら、二度とやりたくない、二度と足が踏み出せないほど辛い記憶にしてはいけない。
恐らく、早晩スリップ(一時的に元の状態に戻ること)する可能性は高いだろう。
そのときに諦めるのではなく、たとえ何度スリップしても「またリスタートしよう」と思い取り組めることが大事だし、スリップから学び、スリップを回避する術を持つことの方が大事だ。
そう思ったら、今回のことを「あのとき、結局、何にも遊べなかったな」という辛いだけの記憶にはしたくなかった。
そもそも、100点じゃなくても続けていく、その中で向上していける気力を養う必要を感じていた。
午前中は仕事をして、午後は遊びに行こう。しかも、遊んだ感じがするところに行こう。そう決めた。
そしてその日の午後、私はバスで小樽に向かった。
窓の外の雪景色を眺めながら、何をするでもなくぼーっとしていたのだが、なぜかある過去のシーンが頭にずっと浮かんでいた。
薬業界の先輩であるSさんに、
「本当にそう思うなら、薬剤師免許を返納しろよ」
と言われた場面が、突然鮮明に思い浮かんでいたのだ。
*****
それは2006年の出来事だった。
2006年の3月末に、私は腹腔内視鏡下で中絶をしている。
結婚して3年以上経ち、やっと授かった子どもだったが、継続できない妊娠だった。
妊娠したかも!?と思って受診したクリニックの先生が、長い時間をかけて診察し、データを眺めた後、
「これだけ医学が発展しても、妊娠中に母子ともに突然亡くなるってことがあって、これはそういう妊娠だと思う」
と言い、A大学病院を紹介された。
A大学病院でもなかなか診断がつかず、毎週のようにA大学病院で診察を受けていた。
受診の度に診察する先生の役職が上がっていき、関わる先生が増え、時間がかかるようになっていく。
それでもなかなか結論は出ず、毎回、珍しい症例を見ている感が隠し切れない診察と先生方のディスカッションを聞いていた。
今思うと、かえってやらなきゃよかったんじゃないかと思うが、随分、自分と同じ症例の論文も調べた。
産科医の友人にも聞いてみた。
それでも、不安はなくなるどころか全く小さくならなかったし、調べれば調べるほどかえって大きくなった。
結局、妊娠の終了(中絶)を決定したのは「教授以下、医局で検討を行った結果です」と言われ、それ以上の理由は教えてもらえなかった。
医療人(薬剤師)としての私は、この決定は妥当であり仕方なかったと理解している。
この決定があったからこそ、今、自分は生きていると思っている。
むしろ、最初の先生がよく見つけてくれたと思うし、それはA大学病院でも、別の医師の友人にも言われた。
だけど、納得するか、割り切れるかは、ロジックや事実とはまた別の問題だった。
結果として私は命を絶つ選択をしたことを受け止めきれず、この件をきっかけに4年以上に及ぶうつを経験する。
今でこそ、こうしてブログに書けるまでに冷静になった。それだけの時間が経った。
だけど、当時はそんな状態ではない。妊娠を含む情報に過敏になり、触れられなくなっていた。
問題は私の仕事の内容だった。
コーチになる前の私は、製薬会社で副作用情報を含む安全管理情報を集めて評価・報告する仕事をしていた。
この「安全管理情報」には、「妊婦・授乳婦が服薬した場合」も含まれている。
業界の研究会にも参加していた。Sさんは、業界団体で知り合った先輩だ。
結婚を機に安全管理部門に部署を移動した私は、安全管理業務のことなど全くわからないまま、2003年から業界団体の研究会に参加することになった。
社名をアイウエオ順に並べたら隣の席になった、というだけの理由で知り合い、Sさんはその後現在に至るまで、私にイチから業務や業界のことを教え、育ててくれた。
一方、どれだけ症例や論文を調べようとも自分の不安には全く何の役にも立たなかった経験から、私は安全性情報、特に妊婦・授乳婦の情報の収集ができなくなった。
これらの情報の収集・調査にも結構な手間も時間もかかる。それなのに、何の役にも立たなかったじゃないか。この仕事に何の意味があるんだ。そう思っていた。
業界団体の活動的には、まさにその情報の収集や活用について検討していた。それなのに、全く賛同できない。だって意味ないじゃん。そう思っていた。
親しさから考えると、Sさんにこの「こうやって苦労して情報を集めたって役に立たないじゃないか」話は、何度か(何度も?)していたと思う。
そんな中、あるときSさんが私に言ったのが、
「本当にそう思うなら、薬剤師免許を返納しろよ」
だったのだ。
Sさんはそのまま、噛んで含めるように、
「あなたは、たまたま役に立つ情報がなかった。でも、これからの患者さんには、あなたの症例が役に立つかもしれないんだ」
「試してみるわけにいかない情報は、たまたま起きた事例を蓄積していくしかないんだ」
「もし、あなたのときに情報がもっと蓄積されていて、役に立つ情報があったとしたら、あなたは自分で判断できる。でもな、患者さんはな、医療人がわかるように説明してサポートしなかったら、全然わからない中、同意書にサインするんだよ」
「あなたが辛かったことはわかる。だけど、専門家としての責任まで放棄するなよ」
「本当に未来の患者さんのための情報を集めることが無意味だとしか思えないなら、未来の患者さんのことを考えられないのなら、免許を返納して、薬剤師を辞めなさい」
そう言った。
今思えば、イチから一生懸命育てた後輩に、そんなことを言いたくなかっただろうな、と思う。
普段、業界活動をしているときにも、Sさんは調子の悪い私をとても気遣ってくれていたことも今は知っている。
周囲の人からの防波堤になってくれていたことも後で気づいた。
当時の私は自分のことで精いっぱいで、そんなSさんの気持は何も考えられなかった。
Sさんの言葉の意味を理解・納得したのも、回復後だ。
でもこのとき、とにかく「専門家の責任を放棄しない」「仕事をする」ということだけは私にインストールされた。
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小樽に向かう雪景色を眺めながら、「そんなことあったな」「幸いにして、この仕事は、積み重ねが力になる仕事だったから、このおかげでキャリアが途切れずに済んだんだよな」なんて思い出していた。