(2月の雪景色が最も美しい時期のことです)
雪のアルテピアッツァ美唄に来ました。
廃校になった小学校を安田侃の彫刻美術館にして早50年近いこの場所、土地の力とその土地を護る人の力や、戦後この場所に小学校を建てるときにどれだけ子どもたちに夢と未来を託したかを感じる場所です。
場所の気というか空気というか雰囲気がとても良く、体育館や校舎を再利用した建物も、安田先生が地面の起伏まで考えたという屋外展示も、いつまでもここにいたい!と思う場所です。
春~秋は度々訪れていたのですが、アルテピアッツァ美唄のInstagramを見て以来、雪の季節に一度は行けたらなぁと思っていました。
だけど雪道を運転しない私にとって、冬の美唄は近いけど遠いのです。
札幌から60kmしか離れていないのに、札幌からの都市間バスは何年も前に廃止。特急は1時間に2本くらい。各駅停車は朝7時代の札幌直通3本を除き、1時間に1本。しかも途中の岩見沢乗り換え。
でも、それでも。いつか行けたらという場所でした。
そして今回。
札幌に来る前から頭と心がいっぱいで、なんとなく自分がバラバラというかチグハグというか、とにかくうまく動かなくなっている感じがしていました。
約10日間の札幌滞在中、1日だけフリーの日があり、その日の前夜、とりあえず心と頭を休ませようとアルテピアッツァ美唄に行くことに決めました。
列車の窓から、だんだん積もった雪が高くなり、吹雪いているのか晴れているけど線路の横に積もった雪が電車が起こす風で吹き上げられているだけなのかわからない景色を眺めながら、美唄に向かいます。
美唄駅からはタクシーでアルテピアッツァ美唄へ。
到着したアルテピアッツァ美唄は、見事な雪景色でした。
大理石でない彫刻(大理石の彫刻は雪で割れないように春までシートを被って冬眠させる)に向け、雪中迷路のように雪かきがされています。
幸い、到着する頃に雪もやみ、歩いて回るには最高の環境です。
とにかく歩いてみようと、歩き回ることにしました。
周りは雪。目に入るものは雪か木か彫刻。まれに古い(校舎と体育館だった)建物。
そして、朝の除雪後は人は歩いていなそうな雪道。
雪の上を踏みしめる感触や、冷たくて透明な空気が顔に当たる感覚。着ているものがこすれる音。木の枝から雪が落ちる音。
最初は彫刻にたどり着き彫刻を見るために歩いていたのですが、じきに歩くこと自体が目的化し、歩くために歩いていました。
歩くことで感じる感覚‘(感触)や自分に起きる反応、そんなことに注意を向けつつ歩いていると、だんだん、雪景色の中を歩いていたのに、雪景色が動く中に自分がいるような気すらしてきます。
ひとしきり歩いた後は暖かいカフェや展示室で休憩です。
窓から見えるのはやっぱり雪景色。雪か木か彫刻。まれに歩いている人。
休憩するなら本でも読むか…テキスト読んで勉強するか…スマホで何かするか…と思っていたし、日常であれば「依存症か?」と思うほどスマホが手放せない私ですが、気づけばひたすらぼんやりと外の景色を眺めていました。
「あそこに彫刻が埋まってる…」「あ、枝から雪が落ちた」「あんなこところに何か動物が通ったあとがある」などと、どこかに注意を定めては、またぼんやり景色全体を眺めることに戻る、そんな時間を過ごしていました。
意図を持って眺めるのではなく、ぼんやりと全体を眺める。そして、なにかに注意が向いたら、それを「あぁそうか」って思って、またぼんやりする。
アルテピアッツァ美唄は彫刻美術館なのですが、私にとっては、歩くために歩き、眺めるために眺める場所であり時間でした。
心と頭がいっぱいいっぱいだった私。歩くために歩き、その後、眺めるために眺め、気づけば心と頭に少し空白ができ、それに伴って落ち着いた感じがあります。
人は カラダ ⇒ ココロ ⇒ アタマ の順で整うと言いますが、まず歩き、そして眺める。
そんな時間のありがたさを感じました。